オランダ堰堤の歴史

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オランダ堰堤の歴史
 692年(持統6年)、持統天皇が藤原京造営のため、田上山のヒノキを大伐採したことを端を発した約1300年の間、上田上・田上地域は、甚大な被害に悩まされていた。
 江戸時代の終わりごろ、幕府が重い腰をあげ「砂留め」に着手したが、全く効果がなく、1872(明治5)年政府の「治山治水事業」により、オランダからヨハネス・デ・レーケ他多数の土木技師を招き、復興に当たらせた。
 この堰堤は、デ・レーケの指導を受けた西田儀三郎が設計・監督。7年の歳月をかけて1889年(明治22年)築造された鎧ダムである。
以来、現在までどんな洪水にも耐え、下流の人々や民家、更に田畑を守り続けてきた。
 この堰堤の大きさは、横34m、高さ6m、石積16段、天場の幅7m。築提場所は、川が曲線から直線に変わった場所。堰堤の石材は直方体で一辺が約45cm、奥行きが約130cm、積み方は鎧積み、石材と石材の接点は密着、堰堤の両端も岩盤に密着、川幅は当初の2倍。
 このことは、水速・水圧を弱める工夫。奥行きの長いのは、崩れにくくするための工夫。また、天場の落水線をよく見るとアーチ形、これは水を真ん中へ流すと同時に左右の土手の浸食を防ぐための工夫が各所に伺える。堰堤の内部は、基礎の上に粘土・赤土・小石・砂を混合し、叩き固めている。